古代山城の謎に迫る!大野城と信子の伝説を訪ねて
ライターのYUKOです。今回は、古代山城の謎に迫ります。大野城と信子の伝説を訪ねてきました。
日本古代の防衛拠点
日本が唐軍の侵攻に備えて築造した軍事拠点は?
水城
白村江の戦いで敗北した日本は唐軍の侵攻に備え、筑紫に水城と呼ばれる軍事拠点を築造しました。
この水城の築造と並行して、大宰府の背後にある四王寺山に朝鮮式山城である大野城が築かれました。
大野城は百済から亡命した軍人である憶礼福留とおくらいふくると四比福夫しひふくぶによって築かれ、標高410mの四王寺山に総延長8kmの城壁が築かれました。
大野城は、水城とともに日本の防衛拠点として重要な役割を果たしました。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城古代日本の軍事施設と朝鮮半島情勢
朝鮮半島情勢の変化により、日本の軍事施設は実戦で使用されなくなった理由は?
唐と新羅の対立
唐が朝鮮半島を掌握したことにより、唐と日本は直接対峙する可能性がなくなった。
そのため、唐が日本に侵攻する計画は棚上げされ、日本の軍事施設は実戦で使用されることなく、大野城は信仰の場、水城は大宰府の玄関口として利用された。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城古代山城の軍事施設
古代山城に備わっていた軍事施設の特徴は?
実戦的な構造
古代山城には、天守や櫓のような中世・近世の城郭で見られる施設はないものの、十分な防御性を備えた構造であり、籠城にも耐えられる用意が施されていました。
特に「百間石垣」を中心とする石垣・土塁は、大野城が実戦に備えた軍事施設であることを強く感じさせます。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城古代山城の典型例
このように山に依拠し城壁、門、建物を構成要素とする要害は古代の朝鮮半島において多くの類例を持つ
山に依拠した城壁や建物は古代の朝鮮半島に多く見られる。
古代の朝鮮半島には山に依拠した城壁や建物を構成要素とする要害が多く存在しており、その典型例として価値の高い史跡である。
また、大野城は国家を鎮護する国境に置かれた山岳寺院としての性格を帯び、堂跡や坊舎跡、経塚などが山内に存在している。
江戸時代にはすでに認知されており、古城古戦場の章にも記載されている。
詳しくみる ⇒参照元: 特別史跡 大野城跡大野城の石垣構造
石垣が築かれたのは城のどの部分か?
谷筋
大野城には、土塁が築かれた石垣尾根筋と、石垣が築かれた谷筋があります。
南側には高さ6mの「大石垣」、北側には大野城最大の石垣「百間石垣」があります。
百間石垣は、当初150m以上の長さがあり、高さ4mで丁寧につまれています。
谷部は、流水による土砂の流出を防ぐために石垣内部まで石を詰めた「総石垣」工法で築かれています。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城古代大野城の築城と構造
古代大野城を築城した指導者は誰か?
百済の遺臣
大宰府政庁跡から見える大野城は、665年に朝鮮半島にあった百済が滅亡した翌々年に、百済の遺臣たちの指導により築城された。
城は標高410メートルの四王寺山に位置し、馬蹄形の形状で、縁に沿って二重になる高さ約8メートルの土塁が築かれている。
土塁は北側と南側の一部で二重になり、谷部では自然石を用いた石塁に移行しており、外周の総延長は約8キロメートル。
土塁の9カ所では門の跡が見つかっている。
詳しくみる ⇒参照元: 特別史跡 大野城跡大野城跡:万葉集の原風景と歴史的呼称
万葉集に詠まれた大野城跡の景色は今でも見ることができるか
見ることができる
大野城跡は、万葉集に詠まれた「大野山霧立ち渡る」の景色が現在も政庁跡から見ることができます。
また、江戸時代には「さいふまいり」の遊山の地として多くの紀行文に記されており、「大城山」や「四王院城」などの呼称で呼ばれていました。
詳しくみる ⇒参照元: 特別史跡 大野城跡史跡「さいふまいり」と地域住民の取り組み
史跡「さいふまいり」を守ってきたのは誰ですか?
地域の人々
「さいふまいり」は、史跡地を「遊山」する伝統的な行事で、現在も継続されています。
大野城跡を含む史跡の保護と継承は、1350年にわたって地域に住む人々によって行われてきました。
彼らの活動は「太宰府市歴史的風致維持向上計画」に位置づけられ、環境整備などが進められています。
詳しくみる ⇒参照元: 特別史跡 大野城跡大野城の歴史と特徴
大野城市の市制施行時に「大野市」という名称にならなかったのはなぜですか?
福井県に同名の市があったため
大野城は、福岡県のベッドタウンとして人口が増加傾向にある。
市制施行前は「大野町」だったが、1972年に福井県に同名の市があったため、「大野城」という市名となった。
大野城は、九州大学の移転や高架工事の反対運動などにより、近隣地域と比べて成長が停滞していたが、現在では住みやすい街として評価が高い。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城市筑紫郡の養蚕の歴史
筑紫郡で共同稚蚕飼育所が最初に開設されたのはいつですか?
1904年(明治37年)
明治から昭和の初期にかけて、筑紫郡では養蚕が盛んに行われていました。
1904年(明治37年)に3ヵ所の共同稚蚕飼育所が開設され、その後も養蚕指導の拠点となる福岡県蚕業試験場が設立されました。
1914年(大正3年)から1923年(大正12年)にかけて養蚕農家は急増し、1927年(昭和2年)には農家の半数以上が養蚕に従事していました。
1935年(昭和10年)には福岡県繭検定所が独立し、試験場の隣に別の庁舎が建てられました。
現在、これらの施設の跡地には大野城市役所やショッピングセンターが建っています。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城市大野城南側の大宰府口城門
大野城の南側に築かれた城門の名前は?
大宰府口城門
大野城南側の大宰府口城門は、幅5メートルの門で、大手門にふさわしい迫力のある石垣が特徴です。
右手には土塁が伸び、左手には幅20メートルの水ノ手口石垣があります。
この城門から土塁に沿って登ると、大野城南面の防備を担う尾花地区土塁にたどり着きます。
尾花地区からは、大野城と一緒に築かれた基肄城も望めます。
詳しくみる ⇒参照元: 大野城|基肄城とともに造られた古代最大の山城