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平安の和歌界に君臨した二条家と冷泉家: 京極派の源流を知る

ライターのAnnaです。平安時代の和歌界で大きな影響力を持っていた二条家と冷泉家についてご紹介いたします。

鎌倉時代歌壇の巨匠:藤原定家

鎌倉時代初期の歌壇で中心人物として活躍し、新古今調を大成した人物は誰か

藤原定家

藤原定家は鎌倉時代初期の歌人であり、歌壇の中心人物であった。

彼は「有心体」と呼ばれる独自の和歌の様式を提唱し、新古今調を大成した。

九条良経、慈円、西行などの著名な歌人と交流し、後鳥羽上皇からも和歌の指導を求められた。

晩年は一条京極に移り住み、嵯峨に山荘を営んで「小倉百人一首」を編纂した。

藤原定家の和歌は後世においても高く評価され、歌道の師として崇められている。

詳しくみる ⇒参照元: 冷泉家,Reizei Family 'Kyotofukoh'

京極派と印象派:対照的な芸術の旅路

京極派が存続していた場合、和歌はどのように発展していた可能性があるか

鮮烈な色彩、社会風俗に目を向けた歌

京極派がもし存続していた場合、和歌は「ゴッホ」のような鮮烈な色彩、「ドガ」のような社会風俗に目を向けた歌が詠まれる可能性があったかもしれない。

これは、京極派が抽象的な歌風から写実的な歌風へと進化した流れと、西洋絵画が写実画から印象派を経て抽象画へと至った流れが対照的であることからも推測される。

また、京極派と印象派の共通点は風景の表現技法だけでなく、「幸福感」や作品から得られる温かさの本質にも及ぶ。

詳しくみる ⇒参照元: 中世に輝く和歌の印象派! 京極為兼と「京極派」を知る

京極派和歌の源流と影響

京極派が編纂した勅撰和歌集の特徴は?

持明院統天皇の勅撰

京極派の歌人である伏見院、永福門院、花園院は持明院統であり、彼らが編纂した「玉葉和歌集」と「続後撰和歌集」は、いずれも持明院統の天皇によって勅撰されたものです。

そのため、京極派の和歌は持明院統の政治的立場を反映しているとされています。

また、京極派の和歌は、繊細な言葉でありのままの風景を詠うことが特徴で、これは19世紀の西洋絵画史における「印象派」のスタイルと類似しています。

そのため、京極派の創始者である京極為兼は、印象派の父であるエドゥアール・マネになぞらえられることもあります。

しかし、京極派で最も重要な人物は為兼ではなく、伏見院の中宮である永福門院だとされています。

詳しくみる ⇒参照元: 中世に輝く和歌の印象派! 京極為兼と「京極派」を知る

京極派の和歌革命

中世の和歌における京極派が唱えた革命的な考え方とは?

心をそのまま歌うこと

中世和歌の暗黒期に、京極派は「自らの心が感じたまま」を歌うことを理想とした。

これは、それまでの宮廷の遊戯としての和歌に革新をもたらした。

京極派は伝統的な和歌に対して勝負を挑み、和歌史に画期的な大事件をもたらした。

彼らの考え方は、正岡子規の「写生論」の先取りともいえる。

詳しくみる ⇒参照元: 中世に輝く和歌の印象派! 京極為兼と「京極派」を知る

冷泉家と戦国時代

冷泉家はどのようにして戦国時代を生き延びたのか?

地方へ避難

為相が鎌倉に和歌を広めた後、嫡流の二条家と京極家は権力争いや政治介入で断絶。

残った冷泉家は藤原俊成の歌論書や定家の日記など貴重な遺産を引き継ぎ、戦国時代には駿河の今川氏などを頼って地方へ避難。

豊臣政権期には大坂に退去したが、徳川家康の取りなしで京都に戻り、秀吉の公家町屋敷が取り壊された後も旧地に残ることができた。

詳しくみる ⇒参照元: 【京の国宝 知られざる物語 vol.1】家宝継承、1000年...