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だるま:伝統と縁起を紐解くーその意味、色、歴史、そして遊び

こんにちは、ライターのAnnaです。今日はだるまについてお話しします。

だるまの起源と意味

だるまのルーツは?

禅宗の僧侶・達磨

だるまは江戸時代に禅宗の教えを広めるために作られたもので、禅宗の祖である達磨がモデル。

丸い頭と体、赤い胴体、黒い目と眉の形が特徴。

強運を呼び込むものとして親しまれている。

現代では目標達成のお守りや縁起物として使われる。

詳しくみる ⇒参照元: だるま:日本の伝統文化の象徴|Learning Japane...

だるまの色が持つ意味

なぜ人々は目の描かれていないだるまを好むようになったのか?

自分で好きな目を描けるように

江戸時代以前は、だるまは主に赤色または白色で作られていましたが、昭和以降になると、様々な色のだるまが作られるようになりました。

黒いだるまは商売繁盛、黄色のだるまは豊穣や金運上昇、金色のだるまは金運向上、赤いだるまは魔除けや家内安全、開運吉祥の意味が込められています。

詳しくみる ⇒参照元: 達磨(だるま)の意味と縁起を徹底解説|色別の意味と選び方

高崎だるまの変遷と葦名鉄十郎盛幸

養蚕業の流行により、高崎だるまの型にどのような変更が加えられた?

丸みを帯びた形

元金沢藩士の葦名鉄十郎盛幸によって作られた初期の高崎だるまは、顔の下に棒のような衣線が彫られていた。

しかし、横浜港の開港に伴う養蚕業の盛行を受け、鉄十郎は繭の形に合わせた丸みを帯びた型を考案した。

さらに、縁起の良い「福入」の文字が書けるよう、衣線の間隔を少し開けた。

この改良された型が踏襲され、現在の高崎だるまに至っている。

高崎だるまは、1697年に東皐心越禅師を開山として創建された少林山達磨寺で製作されている。

1726年には水戸家から「三ツ葉葵」の紋所と「丸に水」の徴章を下賜され、1732年に寺格が昇格した。

詳しくみる ⇒参照元: 高崎だるまの歴史

だるまの由来と現代の使われ方

だるまに手足がないのはなぜですか?

自己の存在が大切だから

だるまは禅宗の思想に基づき、自己の存在の大切さを表すために手足がありません。

また、顔に目を入れることで願い事を唱え、お守りとして所持されます。

さらに、転んでも立ち上がる意味合いを持ち、挑戦者に励みを与えます。

現代でもだるま市や祭りが開催されるなど、人気のあるアイテムとして親しまれています。

詳しくみる ⇒参照元: だるま:日本の伝統文化の象徴|Learning Japane...

達磨大師の禅宗伝播

達磨大師が禅宗を伝えた国はどこか?

中国

達磨大師は南インド出身の禅宗の始祖で、6世紀初頭に中国に渡り、嵩山の少林寺で面壁坐禅して悟りを開きました。

梁の武帝との対論や没後のインド帰国など、多くの有名な伝説があります。

日本ではだるまの人形として親しまれており、選挙に勝つと目を書き入れる赤い人形や「だるまさんがころんだ」として子供たちにも親しまれています。

詳しくみる ⇒参照元: 達磨大師(だるま)の歴史・伝説・面壁九年の逸話を紹介

だるまの輸送の歴史

だるまを市に運ぶ際に、最初の乗り物はどのようなものだったか?

リヤカー

大正末期から昭和初期にかけて、だるまを市に運ぶための手段としてリヤカーが導入されました。

遠い市へは、丸籠にだるまを詰め込んで貨車に載せて輸送していました。

戦後、オート三輪車が利用され始めると、だるま市への運搬がより容易になりました。

1955年には、初めて必勝だるまが製造されました。

その後、1965年頃からは自家用トラックによる運搬が主流となりました。

詳しくみる ⇒参照元: 高崎だるまの歴史

養蚕業の盛んと高崎だるま

養蚕業が盛んになったのはいつ頃か?

1829年頃

19世紀初頭、日本は町人文化が栄え、商人の台頭により絹織物産業が発展しました。

養蚕業も地方を中心に盛んになり、関東地方を中心に養蚕農家が増加しました。

1829年には、東京の田町でだるまの販売が始まり、養蚕の豊作を願う「蚕大当たり」というだるまが人気を博しました。

1866年頃には、少林山達磨寺のだるま市が本格化し、1884年には高崎だるまが川崎大師に進出するなど、だるまの販売が全国に広がりました。

1915年頃には、高崎のだるま製造業者が40数戸に増え、売上額も3万円に達しました。

詳しくみる ⇒参照元: 高崎だるまの歴史