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森コンツェルンの系図で紐解く、巨大企業の複雑な関係性

ライターのYUKOです。

ヨードの経営危機と矗昶の活躍

千葉ヨード工場の塩化カリウムはどのような目的で利用された?

マッチの生産

鈴木三郎は、元々グルタミン酸ナトリウムの製造特許を持っていた鈴木製薬所の専務時代からヨードに関わっており、矗昶の提案に応じて館山工場を譲り渡した。

当時、東信電気が長野県の水力発電計画で行き詰まっていたため、矗昶が黒沢睦之助を説得し、4つの発電所を建設することに成功した。

これらの発電所と送電線を第二東信電気に計上して東京電燈と合併し、東信電気が莫大な収益を上げた。

矗昶は開発の見返りに小梅に塩素酸カリウム工場を設立し、千葉ヨード工場から原料の塩化カリウムを運んで、千曲川発電所の電力を使用してマッチの生産に着手した。

しかし、スウェーデン製の輸入マッチのダンピング攻勢に圧され、この事業は1年ほどで閉鎖された。

その後、矗昶は電気化学工業の経験から森コンツェルンを築き上げた。

詳しくみる ⇒参照元: 【文明地政學叢書第一輯】第六章 森コンツェルンの成立と人脈

森矗昶の事業における功績

森矗昶は、事業において何を発見した?

ニッケル鉱床

森矗昶は、日本におけるアルミ工業の発展に大きく貢献しました。

日本沃度を日本電気工業に改称し、広田工場を買収して化学薬品の製造を開始しました。

また、日本火工との協力により合金NK鋼を開発し、ニッケルの国産化に成功しました。

昭和電工の初代社長も務め、硫安販売社長や日本硫安社長など肥料分野でも活躍しました。

さらに、軽金属分野ではアルミニウム工業組合理事長や帝國アルミニウム統制社長も歴任し、軽金属産業の発展にも寄与しました。

詳しくみる ⇒参照元: 【文明地政學叢書第一輯】第六章 森コンツェルンの成立と人脈