勝新太郎の若かりし日々: 伝説の豪遊と息子の悲劇
こんにちは、ライターのYUKINOです。今回は、俳優・勝新太郎の若かりし日々についてご紹介します。
勝新太郎の栄光と挫折
勝新太郎が映画俳優になるきっかけになった出来事は?
ジェームズ・ディーンとの出会い
勝新太郎は、大映時代に永田雅一社長に可愛がられたが、主演作の不人気により映画館の館主から苦情が寄せられるほどだった。
しかし、1960年の『不知火検校』で悪僧を演じたことで評価を一新し、1961年に中村玉緒と結婚。
続く『悪名』、『座頭市物語』、『兵隊やくざ』で不動の人気を獲得した。
1967年には勝プロダクションを設立し、自ら映画製作に乗り出した。
大映の2枚看板「カツライス」として、市川雷蔵と共に大映を支えた。
詳しくみる ⇒参照元: 勝新太郎勝新太郎の転機となったハリウッドスター
勝新太郎の才能に影響を与えたハリウッドスターは誰?
ジェームズ・ディーン
勝新太郎は、三味線弾きの才能に恵まれましたが、アメリカ巡業中にジェームズ・ディーンに感化されて映画界に入りました。
当初は脇役でしたが、1960年の「不知火検校」で汚れ役に転じたことで、強烈な存在感を発揮するようになりました。
勝新太郎は、東京市深川区出身で、本名は奥村利夫、身長173cm、血液型O型でした。
父は三味線奏者の杵屋勝東治、兄は俳優の若山富三郎でした。
詳しくみる ⇒参照元: 勝新太郎の若い頃は市川雷蔵と!悪名では田宮二郎と!若山富三郎の栄光への軌跡
脇役時代の若山富三郎が人気を博した映画シリーズは?
緋牡丹博徒シリーズ
1954年に新東宝に入社し、映画デビューした若山富三郎は、1958年の「銭形平次捕物控」で主演を務めました。
新東宝が経営不振に陥ると東映に移籍し、「人形佐七捕物帖」シリーズで主演しましたが、脇役としても多くの作品に出演しました。
1962年に大映に移籍し、城健三朗と改名しましたが、市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじていました。
1964年に藤原礼子と結婚し、若山騎一郎を儲けますが、翌年に藤原と離婚して干されます。
1966年に東映に戻り、若山富三郎に芸名を戻しました。
鶴田浩二主演の「博奕打ち 総長賭博」の助演で認められ、主演映画も制作されるようになりました。
1968年からは「緋牡丹博徒シリーズ」、「極道シリーズ」、「前科者」などに出演し、コミカルな演技が加わった義理人情のヤクザ映画で人気を博しました。
1970年代には「子連れ狼シリーズ」で拝一刀を演じ、代表作となりました。
詳しくみる ⇒参照元: 若山富三郎若山富三郎の演技と出演作品
若山富三郎が「魔界転生」で演じた柳生宗矩と千葉真一が演じた柳生十兵衛の決闘のクライマックスシーンの特徴は?
華麗で凄みがある
若山富三郎は、1977年の『悪魔の手毬唄』で磯川警部、1978年から放送された『事件』で菊池弁護士を演じ、抑えた演技でそれまでのイメージを一新した。
1979年の『衝動殺人 息子よ』で主演男優賞を受賞し、1978年の『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』では少年野球日本代表チームの監督役としてトニー・カーティスと共演した。
演劇でも長唄で鍛えた美声を披露し、1978年の『歌舞伎模様・天保六花撰』で河内山宗俊に扮して芸術祭大賞を受賞した。
1981年の『魔界転生』では柳生宗矩を演じ、紅蓮の炎の中で千葉真一演じる柳生十兵衛と華麗で凄みのある決闘を繰り広げた。
魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎のお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。
詳しくみる ⇒参照元: 若山富三郎勝新太郎の若い頃と伝説
勝新太郎が俳優を志したきっかけは?
ジェームス・ディーンとの出会い
勝新太郎は、長唄と三味線を習っていたが、アメリカ巡業中にジェームス・ディーンと出会い、俳優を志すようになった。
23歳で大映京都撮影所と契約し、映画「花の白虎隊」でデビューしたが、最初はパッとしない時代が続いた。
しかし、1960年の映画「不知火検校」で盲目の悪僧役を演じたことが高評価を得、名物俳優への道を歩み始めた。
詳しくみる ⇒参照元: 勝新太郎の若い頃や豪遊伝説!息子の真剣事故・家族の現在を総ま...勝新秘録:伝説の怪優の素顔
昭和の怪優と呼ばれる勝新太郎のマネージャーは誰ですか?
アンディ松本
勝新太郎の元マネージャーであるアンディ松本が著した「勝新秘録 わが師、わがオヤジ勝新太郎」は、勝新太郎の豪快な生きざまを赤裸々に綴った書籍です。
アンディ松本は、勝新太郎を「オヤジ」と呼び、親子同然の関係を築いていました。
同書には、勝新太郎の女遊び、金遣い、芸への情熱など、伝説的な生きざまが余すところなく描かれています。
詳しくみる ⇒参照元: 勝新太郎の元マネージャーが赤裸々に綴った、豪快すぎる'勝新秘...勝新太郎:俳優・監督としての足跡と私生活の波乱
「顔役」という映画で勝新太郎監督が用いた撮影手法は何ですか?
手持ちカメラ
勝新太郎は、俳優としてだけではなく、映画監督としても活躍し、1971年に公開された「顔役」では、手持ちカメラを多用し、極端なクローズアップとカットつなぎを駆使した先進的な手法を用いて、従来の日本映画の文法を破った。
また、松平健を弟子として育て、「暴れん坊将軍」で時代劇スターに押し上げた。
歌手としてもヒット曲「座頭市」をリリースし、テレビドラマ「座頭市物語」の製作にも携わった。
しかし、私生活でのトラブルや映画製作での失敗が重なり、1981年に勝プロダクションが倒産した。
その後、「勝プロモーション」を設立したが、義父の死去などの不幸が相次いだ。
詳しくみる ⇒参照元: 勝新太郎