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草野高明とその弟: 紫川事件から見る工藤会との因縁と小倉戦争勃発の背景

ライターのMariaとして、草野高明とその弟、紫川事件と工藤会との因縁、小倉戦争勃発の背景について執筆します。

山口組傘下に入った北九州の暴力団

草野組と対立していた梶原組が傘下に入った暴力団組織は?

山口組

1950年に草野組組長の弟が梶原組組員に殺害され、対立が続く中、梶原組は1963年に山口組若頭・地道行雄の傘下に入る。

地道は安藤組や長畠組も傘下に収め、梶原組を通じて山口組組長・田岡一雄に北九州市での力道山のプロレス興行実施を依頼し、田岡は了承する。

一方、草野組は梶原組に対抗して北原謙二の公演開催を企図していた。

詳しくみる ⇒参照元: 紫川事件

工藤会と草野一家の抗争激化

工藤会と草野一家の平和が破られたきっかけとなった事件は?

高級クラブでの乱射事件

昭和61年(1986)2月、高級クラブで草野一家総長代行・新井秀夫らと工藤会二代目矢坂組組長・山本和義らによる乱射事件が発生し、両陣営に重傷者が出た。

この事件をきっかけに、草野一家幹部が射殺される事件が相次ぎ、溝下極政会会長が草野一家若頭を更迭し、謹慎処分となった。

乱射事件では山本和義組長が殺人未遂で懲役10年、矢坂組組員・柳井亮嗣が懲役7年の刑に処されたが、草野一家側は無罪となった。

詳しくみる ⇒参照元: 工藤会対草野一家――小倉戦争勃発

北九州市プロレス興行依頼の経緯

誰が北九州市でのプロレス興行の実施を依頼したのか?

梶原国弘

1963年、三代目山口組若頭の地道行雄が梶原組と安藤組、長畠組を傘下に収めた。

これを受けて、梶原組組長の梶原国弘は地道行雄を通じて三代目山口組組長の田岡一雄に北九州市での力道山のプロレス興行の実施を依頼した。

田岡は日本プロレス協会副会長であったため、すぐに了承した。

一方、梶原国弘に対抗して、草野高明は北九州市で北原謙二の公演開催を企図した。

詳しくみる ⇒参照元: 紫川事件

山口組と工藤組の対立のきっかけ

若松市で勃発した事件のきっかけとなった人物は?

梶原組の組員

1950年に梶原組の組員が草野組組長・草野高明の弟を刺殺する事件が発生。

この事件をきっかけに梶原組と草野組の対立が激化。

同年9月10日、山口組・菅谷組組長・菅谷政雄が北九州市に「芦原興行社」を設立。

芦原興行社の事務所が工藤組幹部・前田国政の「前田プロダクション」事務所の真向かいにあったことから、工藤組は山口組に抗議し、芦原興行社は北九州市から撤収することになった。

詳しくみる ⇒参照元: 紫川事件

抗争終結の立役者

小倉の街を恐怖に陥れた抗争の終結に貢献したのは誰か?

稲川聖城

昭和56年に発生した堺町事件をきっかけに泥沼化した工藤会と草野一家の抗争は、関東の稲川会会長・稲川聖城の仲介によって終結に向かった。

稲川会長は両組織の間に立って調停を行い、同年の手打ち式で一時的に抗争は収束した。

詳しくみる ⇒参照元: 工藤会対草野一家――小倉戦争勃発

暴力団抗争の経緯

前田国政を射殺した犯人は?

菅谷組組員2人

10月29日に工藤組組員が芦原興行社に暴行を加えたことをきっかけに、11月28日に菅谷組組員2人が前田国政を射殺した。

その後、12月8日夜には工藤組組員が芦原興行社組員と勘違いして安藤組組員2人を拉致し、撲殺して遺棄した。

遺体は翌9日午前中に発見された。

詳しくみる ⇒参照元: 紫川事件

工藤会事件で主張変更の狙い

工藤会側・弁護側が主張を変更した理由は?

野村被告の死刑回避

工藤会の控訴審で、田上被告と菊地被告は、看護師事件、歯科医師事件への関与を認め、田上被告は野村被告の無関係を主張。

工藤会側・弁護側は、野村被告の死刑回避を目的に主張を変更したとみられる。

菊地被告は元警部事件の指示も認めたが、野村被告の無関係を主張している。

控訴審では、野村・田上両被告の有罪判決は維持される見通し。

詳しくみる ⇒参照元: 【独占手記】弁護団を一新したその裁判戦略 特定危険指定暴力団...

工藤會の来歴と抗争

抗争の直接的なきっかけとなった出来事は?

北原謙二のコンサート開催

「工藤會」の前身である「工藤組」と「草野一家」は、山口組系組員を殺害した「紫川事件」をきっかけに抗争状態に突入。

激しい抗争が続き、田中新太郎が射殺される事件を機に抗争が激化。

1987年に両組織は再統合し、「工藤連合草野一家」へ改名。

その後、「工藤會」となり、田上不美夫が五代目を襲名した。

詳しくみる ⇒参照元: 工藤會

小倉戦争の勃発

抗争の発端となった出来事は?

田中組組員による極政会会長への集団暴行

1979年、工藤会傘下の田中組組員が極政会会長を襲撃。

その後、田中組と極政会は手打ちするも、田中組長が極政会組員に射殺され、これが工藤会と草野一家の抗争(小倉戦争)の発端となった。

詳しくみる ⇒参照元: 工藤会対草野一家――小倉戦争勃発

北原謙二ショー銃撃事件

北原謙二ショーの閉演後に発生した銃撃事件に関与したのはどの組?

梶原組

北原謙二ショーの閉演後に、応援に来ていた石松組の組員が梶原組組員に銃撃され重傷を負う事件が発生した。

この事件を受けて、福岡県警は700人の警察官を動員し、梶原組と草野組の抗争に備えて警戒に当たった。

山口組は北九州市に組員200人を派遣し、菅谷組若頭・上田亨と工藤組幹部・前田国政の間で話し合いが持たれたが、決裂した。

その後、梶原組は山口組の応援を受け、力道山のプロレス興行を開催した。

詳しくみる ⇒参照元: 紫川事件