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草野高明の自宅から紐解く、工藤会との抗争史と小倉戦争の真実

ライターのMariaです。今回は、草野高明氏の自宅から紐解く、工藤会との抗争史と小倉戦争の真実について書きます。

工藤組系草野組の解散

草野組が解散したきっかけは何?

工藤組からの脱退

1966年3月、草野組組長が山口組系安藤組組員拉致・監禁・暴行容疑で逮捕された。

さらに、紫川事件の殺人容疑でも再逮捕されたが、犯行を否認し自供しなかった。

しかし、同月22日に小倉拘置所内で工藤組からの脱退と草野組の解散を表明した。

詳しくみる ⇒参照元: 日本唯一の特定危険指定暴力団・工藤會の落日を活筆した地方祇の...

草野一家の勢力拡大の立役者

草野一家が勢力を拡大させた原動力は誰だったか?

溝下秀男

溝下秀男は、愚連隊の溝下組を率いて草野一家に加わり、草野一家の田川支部溝下組を「極政会」に改称しました。

溝下秀男の加入により、草野一家は拡大し、工藤会との抗争「小倉戦争」の最前線に立って、その終結に貢献しました。

詳しくみる ⇒参照元: 工藤会と草野一家、抗争の果ての統合で残った禍根 〈工藤會の歴...

草野一家の誕生と工藤会との関係

草野一家と工藤会の関係はどうなった?

親山口組

草野高明は工藤組から出迎えられなかったため、親山口組となった。

草野一家を結成し、伊豆健児と兄弟盃を交わしたが、工藤会の田中新太郎は出席しなかった。

詳しくみる ⇒参照元: 草野高明

草野一家の立ち上げと工藤会の条件

竹田組長と草野組長が工藤会から許可をもらう際に提示した条件は?

賭博一本で工藤会のシマを荒らさないこと

元工藤会若頭の草野は、工藤会のシマを荒らさないことを条件に、竹田組長の取り持ちで草野一家を結成した。

しかし、工藤会会長は看板を出すことを認めず、後々の火種となった。

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草野高明の抗争

梶原組が傘下に入った組織は?

地道組

草野高明は日本のヤクザで、工藤會の会長を務めました。

1950年に弟が梶原組の組員に殺害された事件をきっかけに、草野組と梶原組は対立を続けました。

1963年、三代目山口組若頭・地道行雄は梶原組と安藤組に盃を下ろし、地道組傘下に収めました。

これにより、梶原組は山口組傘下組織となりました。

また、同年7月には北九州市の長畠組も地道組傘下に収まっています。

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工藤連合草野一家

工藤会の跡目を継ぐことになったのは誰ですか?

草野高明

草野一家と工藤会の抗争は、稲川聖城の仲裁で終結し、工藤玄治は草野高明の破門を解いて跡目を譲ることに。

その後、両組織は合併して「工藤連合草野一家」となり、総裁に工藤玄治、総長に草野高明が就任。

1990年には、名誉総裁に工藤玄治、総裁に草野高明、総長に溝下秀男が就任し、草野高明が工藤会の跡継ぎとなった。

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草野高明の出所

草野高明の出所時に出迎えをしなかった組織は?

工藤会

昭和52年、草野高明は高知刑務所から出所したが、工藤会からは出迎えがなかった。

これは、草野が工藤玄治会長に無断で組を脱退していたためだった。

一方、三代目山口組の田岡一雄組長は出所祝いの宴を主催し、草野と山口組の縁ができた。

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工藤組と草野組の抗争

未決拘留中に工藤組から脱退を発表したのは誰?

草野高明

福岡県警による抗争への警戒をきっかけに発生した紫川事件では、工藤組若頭・草野高明が殺人教唆で懲役10年の刑に服した。

未決拘留中だった草野高明は、工藤組長・工藤玄治に相談なしに工藤組からの脱退と草野組の解散を発表した。

この発表は工藤玄治に累が及ぶのを恐れた苦渋の選択だったが、工藤玄治は激怒して草野高明を破門した。

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草野組長の処分と出所

草野組長に下された処分はどのようなものか?

絶縁処分

草野組長は工藤玄治組長の激怒を受け、復縁の可能性がなく任侠界からの追放を意味する「絶縁処分」を受けた。

この処分はヤクザの処分の中で最も重いものとされている。

草野組長はその後、懲役10年の刑に服役し、出所時には福岡県内から400名、関西などから500名が出迎えたとされる。

さらに、三代目山口組の田岡一雄組長が出所祝いの宴を主催したとされている。

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草野組と工藤会の関係

草野組が工藤会のシマを荒らさなかった条件は?

賭博一本

草野組は、竹田組長の取り持ちで工藤会のシマを賭博一本で荒らさなければ看板を掲げることが許可された。

しかし、その後工藤玄治は看板の掲出を認めず、これが後々の火種となった。

詳しくみる ⇒参照元: 日本唯一の特定危険指定暴力団・工藤會の落日を活筆した地方祇の...