【権官】権官(ごんかん)とは…? 意味や使い方を解説!!

ライターのMIHOです。今回は「権官」という言葉について解説します。権官(ごんかん)とは、どのような意味を持ち、どのように使われるのでしょうか。詳しく見ていきましょう。
権官の重要性の増大

天応1年
権官は初めは地方官に限られていたが、後には京官にも及び、天応1年に員外官が廃止されたことで権官の重要性が増していった。権官は正官に対して仮に任じられた官であり、8世紀末に停廃された員外官の系譜を引いている。権官の任命は栄誉官や補佐官、左遷官など、任じられた事情によって異なる性格を持っていた。 詳しくみる ⇒ 参照元: 権官(ごんかん)とは? 意味や使い方
近衛府の役割

近衛府は禁中を警衛し、朝儀や行幸の警備、皇族や高官の警護を担当しました。
近衛府は禁中を警衛し、朝儀や行幸の警備、皇族や高官の警護を担当しました。また、近衛府は左右に分かれており、長官は大将、次官は中少将でした。近衛府は六衛府の中でも最も地位が高く、平安時代中期以降は幹部は名誉職化し、兵士は儀仗兵化しました。 詳しくみる ⇒ 参照元: 近衛府
官位相当制の初期の位階

正四位上
官位相当制により当初は正四位上であったが、天平宝字5年(761年)2月に従三位に改められた。定員は3人であったが、その後に権官(権中納言)が置かれるようになり、定員は有名無実となった。平安時代を通じて徐々に貴族人口が増大していったのにともない、官位昇進を求める貴族たちからの圧力も増大し、当初、参議を15年以上務めた者のなかから選ばれることになっていた中納言就任条件は次第に緩和され、在任者も増加した。後白河院政期には10人に達した。嘉応2年(1170年)12月30日に平宗盛が任ぜられ9人の例を開き、嘉応3年/承安元年4月21日(この日改元)に平時忠が解官されていた権中納言に還任したことで10人となる[2]。後白河の死後、九条兼実が引き締め策を採って8人にまで抑えている。 詳しくみる ⇒ 参照元: 中納言
権官の定義と役割

「権官」とは、令制に定められていない官の一つで、職務の煩雑多忙を処理するために置かれた官です。
「権官」とは、令制に定められていない官の一つで、奈良時代に置かれ、その後増加して平安時代には正官と並置されました。本来は職務の煩雑多忙を処理するためであり、経歴や資格は正官に任ずるに足りないものの、有能な者を仮にその官に任じ、官に相当する俸禄を給与する役割を果たしていました。最初は地方官に限られていましたが、後には京官にも及びました。また、員外官という類似の官もありましたが、奈良時代に廃止され、権官に置き換えられました。権官の範囲は僧官や神官にも及びました。 詳しくみる ⇒ 参照元: 権官(ごんかん)とは? 意味や使い方
「権官」とは何ですか?

権官は令制で定められた定員以外に置かれた官の一つです。
権官は令制で定められた定員以外に置かれた官の一つであり、員外官との区別は容易ではありません。員外官は令規の正官と並ぶ定員外の官で、主に奈良時代に京官や地方官に任命されました。 詳しくみる ⇒ 参照元: 権官(ごんかん)とは? 意味や使い方
左右衛門府の定員は何名か?

それぞれ左右衛府及び衛門府各2名。
左右衛門府の定員はそれぞれ左右衛府及び衛門府各2名である。左右衛門府は大志・少志四等官における主典であり、官位相当はそれぞれ正八位下・従八位上である。また、衛門府は衛士府に併合されるまでは被官として後期束帯縹袍を着用していた。左右衛門府は大内裏の外郭の一部を警備する役割を担っており、建春門・建礼門・宜秋門・朔平門より外側で陽明門・殷富門・朱雀門・偉鑒門より内側を担当していた。しかし、後に検非違使庁によってこの役割が奪われることとなった。左衛門の陣所は建春門に、右衛門の陣所は宜秋門にそれぞれあった。 詳しくみる ⇒ 参照元: 衛門府
左右弁官局の役割

左右弁官局は太政官内での文書についての一切を担当している。
左右弁官局は、左弁官局と右弁官局の二つの局で構成されており、それぞれ中務省・式部省・治部省・民部省、兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の四省を管轄している。両局は、庶務の処理や宣旨や官符・官牒の作成など、太政官内での文書に関する業務を担当している。また、左右弁官局には大弁・中弁・少弁という役職があり、それぞれの役職にはさまざまな業務があり、大弁は宿直や文案の作成・検討、糾判などを担当している。左右弁官局は太政官内で重要な役割を果たしている。 詳しくみる ⇒ 参照元: 弁・史/少納言・外記
12世紀後半の人口増加

後白河院政期には各7 ~ 8名在籍する例も見られるようになる
12世紀後半になるとさらに人数が増加するようになり、後白河院政期には各7 ~ 8名在籍する例も見られるようになる。後には正員は置かれず、権官のみとなる。中将とほぼ同じ職掌。 詳しくみる ⇒ 参照元: 近衛府
官職の変化

権官だけが置かれた。
南北朝時代以降、正官は任命されなくなり、権官だけが置かれるようになった。昇進の過程としては、参議を15年以上務めた者は中納言に昇進できるとされていたが、中納言の地位に欠員が出来なければ昇進は不可能であった。また、摂政・関白や治天の君の意向次第では、15年未満で昇進することもあった。さらに、参議の定員が増えたことで昇進しやすくなった背景もあった。 詳しくみる ⇒ 参照元: 中納言
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