須古鍋島家とは?佐賀藩家老家から華族編列運動の挫折まで?佐賀藩家老 須古鍋島家の栄枯盛衰
佐賀藩家老家、須古鍋島家。龍造寺隆信の血を引く名門ながら、明治維新で華族の道は閉ざされた。財政難と、華族としての格を維持する財産の不足がその理由。栄華と衰退、そして、華族編列運動の顛末を追う。歴史の波に翻弄され、それでも生き抜いた人々の姿を描く、知られざる佐賀藩家老家の物語。
💡 須古鍋島家は、佐賀藩の家老家として、藩政を支え、佐賀藩の歴史に深く関わってきました。
💡 華族制度下では、経済的な理由などから華族に列せられず、華族編列運動も失敗に終わりました。
💡 佐賀藩主鍋島直正の異母兄である鍋島茂真は、執政として藩の近代化に貢献しました。
それでは、須古鍋島家の歴史を紐解いていきましょう。
須古鍋島家の起源と佐賀藩における役割
須古鍋島家は、佐賀藩でどんな役割を担っていた?
家老として藩政に関わった
陽興寺や須古鍋島家の歴史、佐賀藩における役割について解説します。

✅ 陽興寺は、龍造寺信周が創建した曹洞宗寺院で、須古龍造寺家の菩提寺としていました。本堂は昭和6年の再建で、かつて須古を領していた平井経治が龍造寺隆信に敗れて敗走する際、寺院を焼き払ったという伝説があり、その後復興されたとされています。
✅ 陽興寺の墓所には、初代当主龍造寺信周とその子孫である須古鍋島家の歴代当主の墓が祀られています。初代信周は龍造寺隆信の弟で、兄を補佐して活躍し、鍋島直茂への国政移譲に賛成しました。2代当主龍造寺信昭は信周の次男で、家老として鍋島家を支えました。3代当主鍋島茂周は信昭の子で、初代藩主鍋島勝茂より鍋島姓を与えられ、須古鍋島家となりました。
✅ 須古鍋島家は、佐賀藩の支藩として、家老として藩主を支える役割を果たしてきました。歴代当主は、島原の乱や藩政改革など、佐賀藩の歴史に深く関わっています。陽興寺は、須古鍋島家の歴史を物語る貴重な場所であり、墓所は、その歴史を伝える重要な史跡となっています。
さらに読む ⇒åССڡ出典/画像元: https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/23883須古鍋島家は、龍造寺氏から鍋島氏への転換期においても、佐賀藩を支え続けた家系だったんですね。
須古鍋島家は、戦国大名龍造寺隆信の異母弟・龍造寺信周を祖とする佐賀藩家老家です。
近世には須古邑主として、肥前国杵島郡の須古城を治めました。
龍造寺氏から鍋島氏へ佐賀藩の支配権が移った後も、信周は須古の地を治め続けました。
その後、3代目の邑主である茂周の時代に鍋島姓を与えられ、以後、須古鍋島家を名乗るようになりました。
佐賀藩の財政再建のため、2度にわたる三部上地(藩士の知行を削減する政策)によって須古鍋島家の石高は半減しましたが、幕末まで佐賀藩の家老として藩政に深く関わりました。
えー、すごい。家老としてずっと佐賀藩のこと考えてたんやろなー。なんか、かっこええやん!
華族への編入と経済状況
須古鍋島家はなぜ男爵に叙せられなかったのか?
財産不足のため
華族としての経済状況と、華族への編入が叶わなかった理由について解説します。

✅ 侯爵鍋島直大の名刺は、「侯爵 鍋島直大」と印字されており、表面・裏面の空白部分に直大が筆により30以上の所属団体・学会などを書き込んでいます。
✅ 直大は、華族による雅楽グループ絲竹会に属し、日本歌道奨励会の会長を務めるなど、音楽や詩歌の分野で社会活動に積極的でした。
✅ 歌道奨励会の初回大会は、永田町鍋島邸で開催され、直大は自ら編集した和歌集「松風集」に、歌道奨励会発会式に詠んだ歌を収録しています。
さらに読む ⇒文化遺産オンライン出典/画像元: https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/221607華族としての体面を維持するには、経済的な基盤が重要だったということですね。
明治維新後、華族制度が五爵制となった際、当初は旧万石以上の陪臣も男爵に叙される予定でしたが、須古鍋島家は最終的に対象外となりました。
これは、須古鍋島家の財産が華族の体面を維持するに足りないと判断されたためです。
明治15年・16年ごろ作成の『三条家文書』所収『旧藩壱万石以上家臣家産・職業・貧富取調書』によると、当主茂朝は旧禄高1万1000石でしたが、所有財産は金禄公債1万1950円、田畑1町2反5畝7歩など、経済的に困窮していたとされています。
さらに『授爵録』所収の明治33年5月5日付け宮内省当局側審査書類では、須古鍋島家は実際には表高1万1000石に対し、実際には4807石9斗1升3合2勺5才だったと記されており、華族の体面を維持するのに足りる財産を持っている家とは認められませんでした。
まー、俺も金は欲しいけど、華族ってのはちょっと違うかなー。なんか大変そうやし。
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佐賀鍋島家、華族編列を願うも、弟の告発記事で頓挫。佐賀藩近代化に貢献した鍋島茂真の栄華と、その後の衰退を描く。