阿麻美許曽神社と渡来人の魅力に迫る...
ライターの遠藤です。今回は阿麻美許曽神社と渡来人の魅力についてお伝えします。
祭神の推定
祭神は誰であると推定されているか?
中臣氏の阿摩比古命(アマノヒコノミコト)
神社名に含まれる「許曾」(こそ)が尊称を表すことと考え合わせ、中臣氏の阿摩比古命(アマノヒコノミコト)が主祭神だったのではないか、とする推定がある。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曾神社矢田村に神社が残留した理由
神社の周囲と参道のみは矢田村に残留した理由は何ですか?
神社は矢田村の氏神であったため。
この記事は、南岸に残された矢田村の大半が後の松原市に編入されることになったが、神社は矢田村の氏神であったため、神社の周囲と参道のみは矢田村に残留したことを説明しています。
神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属しており、参道に相当する部分が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在しています。
境内には明治初年まで神宮寺が所在しており、神仏習合の歴史を残していましたが、廃仏毀釈により廃寺となりました。
ただし、寺の山門が参道に残されています。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曾神社阿麻美許曽神社の銘
阿麻美許曽神社の銘には何と書かれているか?
「天見山」「阿闍梨快道之代」
阿麻美許曽神社は河内天美駅の近くにあり、天美の地名の由来となった氏神社です。
本殿前の狛犬台座には「天見山」「阿闍梨快道之代」という銘が刻まれています。
また、阿麻美許曽は松原市天美地区の城連寺・油上・芝・池内の氏神であり、地名の由来も阿麻美許曽に関連していると考えられています。
詳しくみる ⇒参照元: 18 阿麻美許曽神社と渡来人神の名前は何か?
この神はどのような名前で呼ばれているのか?
牛頭天王とも呼ばれている。
飛鳥時代の斉明天皇2年に新羅の牛頭山から京都祇園の八坂神社に移された神は、牛頭天王とも呼ばれている。
境内には神宮寺があり、天見山の山号を持っていたが、廃仏毀釈により寺は廃された。
しかし、神宮寺の山門は今も境内出入口として残っており、神仏習合の景観を見ることができる。
また、手洗舎の東側には「行基菩薩安住之地」の石碑が建っており、行基が居住していたという伝承もある。
詳しくみる ⇒参照元: 18 阿麻美許曽神社と渡来人拝殿の特徴
拝殿はどのような特徴がありますか?
銅板葺の平入入母屋造に軒唐破風の付いたもので、割拝殿形式となっています。
拝殿は銅板葺の平入入母屋造に軒唐破風の付いたもので、割拝殿形式となっています。
拝殿前に注連柱が建っているのも特徴。
拝殿前に配置されている狛犬。
花崗岩製で、かつて当社にあった神宮寺の僧が文化四年(1807年)に奉納したものです。
拝殿後方に建つ本殿はよく見えませんが、銅板葺の流造に三つの千鳥破風(?
)が付いているのでしょうか。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曽神社 (大阪府大阪市東住吉区矢田)境内の施設と見どころ
境内には何があるのか?
巨大なクスノキや神馬の像がある。
松原市の天美地区にある阿麻美許曽神社は、境内に樹齢500年を超える巨大なクスノキや神馬の像がある。
また、松原市域にある6つの神社で「開運松原六社参り」が行われている。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曾神社阿麻美許曽神社の奉斎氏族についての知見
阿麻美許曽神社の奉斎氏族については何が分かっているのか?
奉斎氏族については詳らかではなく、推測の域を出ない。
阿麻美許曽神社は大阪府大阪市東住吉区矢田に鎮座する式内社である。
創建年代は大同年間(806年~809年)とされているが、その他の由緒は詳らかではない。
奉斎氏族については三つの説があるが、いずれも推測の域を出ない。
社名の「許曽(コソ)」は「社」「森」を表す語で、朝鮮半島由来とも言われている。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曽神社 (大阪府大阪市東住吉区矢田)江戸時代の当社の呼び名
当社は江戸時代には何と呼ばれていたのか?
「阿麻岐志(アマキシ)の宮」と呼ばれていた。
当社は江戸時代には「阿麻岐志(アマキシ)の宮」と呼ばれ、この社名は恐らく「阿麻美許曽」が転訛したものだったのでしょう。
当時は「牛頭天王」を主祭神とし、東に「春日神」を、西に「蛭子神」を配祀していたことが『河内名所図会』に見えます。
明治の神仏分離により牛頭天王が同格の神道の神である「素盞嗚命」に替えて祀られた他は現在も江戸時代の神々を踏襲して祀っているようです。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曽神社 (大阪府大阪市東住吉区矢田)神社の位置とは?
神社は矢田村の氏神であるので、どのような位置にあるのか?
松原市天美西3丁目と天美北7丁目の間にある370mの道路に位置している。
神社は矢田村の氏神であるため、現在も松原市天美西3丁目と天美北7丁目の間にある370mの道路に位置している。
この道路は、象の鼻のように細長く、矢田村氏神の参道として残されている。
詳しくみる ⇒参照元: 003 阿麻美許曽(あまみこそ)神社阿麻美許曾神社の大阪市への立地理由
阿麻美許曾神社はなぜ大阪市にあるのか?
大和川の付け替えにより神社が南岸に切り離されたため。
阿麻美許曾神社は大阪市にあるが、元々は矢田村の一部であった。
しかし、江戸時代に大和川の付け替えにより矢田村が分断され、神社は南岸に切り離されてしまった。
その際、矢田村の大半は後の松原市に編入されたが、神社の周囲と参道のみは矢田村に残留した。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曾神社(大阪市) 樹齢500年超のクスノキに心癒され...山門の建立年は?
境内にある神宮寺の山門はいつ建てられたのか?
文化4年(1807)に建立された。
境内には、明治初年まで天見山の山号を持つ神宮寺があった。
南および東に建つ門は同寺の山門である。
拝殿前の一対の狛犬の台座に「天見山」「阿闍梨快道之代」「文化四年九月」の銘があり、社僧が文化4年(1807)に建立したことがわかる。
詳しくみる ⇒参照元: 阿麻美許曽神社 (大阪府大阪市東住吉区矢田)道昭の人物像
行基の師僧である道昭はどのような人物ですか?
道昭は丹比郡の人で、百済系渡来人の船氏の出身でした。