紫式部の母親の死因と生涯について徹底解説
こんにちは、ライターのYUKOです。紫式部の母親の死因と生涯について徹底解説します。
紫式部の生い立ち
紫式部はどのような家庭で育ったの?
文人家系
平安時代中期に活躍した紫式部は、日本最古の長編小説である「源氏物語」の作者。
彼女は、藤原家出身の官吏で漢詩人だった藤原為時を父親として、才能に恵まれた人々や和歌や漢詩に優れた人々に囲まれて成長しました。
そのおかげで、幼い頃から勉強がよくでき、文学的な才能を開花させたといわれています。
紫式部の生涯は、平安時代の最高峰の女流作家として、現在も世界中の人々に読まれる作品を残した才能あふれる人生でした。
詳しくみる ⇒参照元: 5分でわかる「紫式部」生涯・性格・名前の由来・彰子との関係な...紫式部の最期
紫式部の最後が記されている、藤原実資の日記は何?
小右記
紫式部の父親は、藤原為時です。
紫式部は長和3年頃にはすでに宮廷を去っていたのではないかとも考えられています。
しかしながら、これの他に紫式部の晩年の動向を断定できる記録はなく、結局のところ晩年をどう過ごしていたかというのはわかっていません。
紫式部は死後に様々なところで称えられています。
まずは、三十六歌仙の1人に選ばれました。
詳しくみる ⇒参照元: 紫式部の死因は何?晩年はどう過ごした?墓所はどこ?最後の姿を...紫式部の清少納言評
紫式部は、同僚の女房、清少納言に対してどのような評価を下した?
頭が良さそうだが漢字の間違いが多く、大したことはない
紫式部は、源氏物語に対する世間の評判や、同僚女房達の人物評などを日記に記した「紫式部日記」を残している。
後輩の和泉式部に対しては私生活に苦言を呈しつつも才能を評価し、先輩の赤染衛門には尊敬の念を抱いている。
しかし、清少納言に対しては「頭が良さそうに振る舞っているけれど、漢字の間違いも多く大したことはない。
こんな人の行く末に良いことがあるだろうか」と痛烈に批判している。
詳しくみる ⇒参照元: 紫式部 日本史辞典/ホームメイト紫式部の没年
紫式部はいつ亡くなったのか?
西暦1021年
紫式部の晩年の謎
紫式部の晩年の記録が、なぜ残っていないのでしょうか?
晩年の記録は存在しません。
紫式部の晩年の記録は、全く残っていません。
そのため、晩年にどのように過ごしていたのか、また死因についても謎に包まれたままです。
紫式部の死んだ時期については諸説ありますが、定かではありません。
詳しくみる ⇒参照元: 紫式部の死因は何?晩年はどう過ごした?墓所はどこ?最後の姿を...平安時代の女流作家・紫式部
源氏物語の作者である紫式部は、どのような人物か?
平安時代の女性作家
紫式部は、平安時代の女性作家で、長編小説「源氏物語」の作者として知られています。
和歌や学問にも優れ、彰子に教育係として仕えていました。
源氏物語は、54帖からなる長編小説で、ひらがなを使って書かれており、当時としては画期的な作品でした。
紫式部は、源氏物語によって人々を惑わせたから地獄に堕ちた、反対に、観音菩薩の化身だった、などと言われています。
詳しくみる ⇒参照元: 紫式部 日本史辞典/ホームメイト紫式部日記に記された宮中と邸の様子
紫式部の日記では、どのような内容が記されているか?
宮中や藤原道長邸の様子
紫式部の日記は、藤原道長の要請で宮中に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記したもので、和歌18首が詠み込まれている。
この日記は寛弘5年(1008年)7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである。
また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており、この日記は源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある。
詳しくみる ⇒参照元: 紫式部