華頂宮と伏見宮家系図を大公開!子孫の現在と華頂博信氏や華頂尚隆氏の息子についても調査しました。
ライターのYUKOです。今回は、華頂宮と伏見宮家系図を大公開します。
華頂宮家最後の当主
華頂宮家の最後の当主は誰ですか?
華頂宮博忠王
華頂宮家は、4代目当主である華頂宮博忠王の代で廃絶宮家となり、伏見宮家に帰りました。
華頂宮博忠王は1902年生まれで、海軍軍人となりましたが、1924年に亡くなりました。
華頂宮家は、その後、華頂侯爵家として祭祀を継承することになり、最後の華頂宮家当主である華頂宮博忠の実弟である伏見宮博信王が臣籍降下にともない、華頂侯爵家を創立しました。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮家の家系図!子孫の現在は?華頂博信氏の息子は?華頂尚隆...皇族の数が少ないことで危機に瀕した宮家
皇族の数が少ないことから、3度にわたって断絶の危機に瀕した宮家はどこ?
華頂宮
華頂宮は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家です。
当初は一代限りとされた4世襲親王家以外の新設宮家の世襲化を進めていくきっかけともなりました。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮旧華頂宮邸の秘密
伯爵から侯爵に爵位を昇進させたのは誰なのか?
博信王
旧華頂宮邸は、鎌倉市が取得して公開している。
華頂侯爵家とは伏見宮博恭王の第3王子で華頂宮博忠王の弟、博信王が皇籍を離脱し創設した家柄のことである。
ドラマ「IQ246〜華麗なる事件簿〜」で、主人公が住む邸宅として使用されている。
詳しくみる ⇒参照元: 【かながわ秘話】華頂宮、東伏見宮…旧宮家ゆかりの邸宅、神奈川...伏見宮の公現法親王は「東武皇帝」?
輪王寺宮公現法親王が明治時代初期に、東北で「東武皇帝」と称していたとは、本当か
本当
輪王寺宮公現法親王は、伏見宮出身の公家で、戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟の盟主として「東武皇帝」として即位していたという説がある。
詳しくみる ⇒参照元: 伏見宮神奈川に残る旧宮家ゆかりの邸宅
神奈川県に点在する旧宮家ゆかりの邸宅は、どのような歴史を持つのか?
皇室と深い縁がある
神奈川県には、皇室と深い縁のある旧宮家ゆかりの邸宅が点在しています。
葉山御用邸は、昭和天皇が海洋生物研究の拠点として度々滞在し、天皇、皇后両陛下も毎年、静養のために訪れています。
鎌倉市浄明寺にある旧華頂宮邸は、華頂宮家が創設された慶応4(1868)年に建てられたものです。
旧東伏見宮邸は、横須賀市野比にあり、東伏見宮家が明治時代に建てた邸宅です。
これらの邸宅は、皇室の歴史を伝える貴重な建造物として、現在も大切に保存されています。
詳しくみる ⇒参照元: 【かながわ秘話】華頂宮、東伏見宮…旧宮家ゆかりの邸宅、神奈川...華頂宮家の歴史と子孫
華頂宮家の子孫は現在どうしているのでしょうか?
爵位を返上し、一般国民になりました。
華頂宮家は、明治時代初期に創設された旧宮家の一つです。
初代当主は華頂宮博経親王、2代目当主は華頂宮博厚親王、3代目当主は華頂宮博恭王、4代目当主は華頂宮博忠王です。
華頂宮家は、1924年に廃絶となりましたが、その子孫は現在も一般国民として生活しています。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮家の家系図!子孫の現在は?華頂博信氏の息子は?華頂尚隆...移築された茶室・無為庵
無為庵の由来は?
余生を送るため。
無為庵は昭和初期以前の東京・上大崎から移築された茶室であり、名前は「余生を送るため」という意味でつけられた。
天井は八角形で、16本の棹縁を放射状に通しており、柱などにかりん、南天、皮付きの桜や竹といった奇木を使用している。
門は薬医門で、冠木(かぶき)の両端部に獅子の彫刻があり、寺院のような立派なものである。
詳しくみる ⇒参照元: 旧華頂宮邸の保存と活用華頂宮家を継承した博忠王の父
華頂宮家を継承した博忠王の父は?
博恭王
華頂宮家は、伏見宮家の分家として明治維新後に創設された。
初代当主は博恭王。
博恭王は、伏見宮貞愛親王の第2王子。
博恭王は、海軍兵学校を卒業後、海軍中尉に進んだが、大正13年に薨去した。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮華頂宮博忠王
華頂宮博忠王は誰の第何子ですか?
伏見宮博恭王の第2子
華頂宮博忠王は、1902年1月26日に伏見宮博恭王と徳川経子の間に誕生した第2男子です。
誕生後まもなく、父が実系の伏見宮を継承したため、わずか2歳で華頂宮の家督を継承しました。
博忠王は海軍軍人として活躍しましたが、1924年3月19日に22歳の若さで亡くなりました。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮博忠王旧華頂宮邸の歴史
伏見宮家から臣籍降下した王が賜った称号は何ですか?
侯爵
皇室典範とその準則により、宮家を皇族として継承することが禁じられていたため、伏見宮家から初の臣籍降下となった王は、慣例により侯爵を賜った。
王の邸宅は「旧華頂宮邸」と呼ばれ、現在は鎌倉市の景観重要建造物および国の登録有形文化財に指定されている。
邸宅の庭園は一般公開されており、建物内部は年に4日間のみ一般公開される。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮華頂宮の皇族存続
華頂宮博厚親王はなぜ皇族として残ることができたのか?
明治天皇の猶子となったから
華頂宮博厚親王は明治8年に生まれ、当初は「王」の身位だった。
皇族賜姓の成規では華頂宮は博経親王一代限りで臣籍降下することになっていたが、博経親王の働きや博厚親王の年齢を考慮して、他の皇族による存続嘆願が行われた。
明治天皇は特旨をもって博厚親王を皇族の身分に留め、さらに猶子として親王宣下した。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮華頂宮と伏見宮の動向
第23代伏見宮となった人物は?
博義王
明治37年、伏見宮家を継ぐ予定だった弟宮邦芳王が病弱のため、第1王子・博義王と共に伏見宮に復帰。
1923年に父・貞愛親王が薨去し、第23代伏見宮となる。
その後昭和21年、70歳で薨去。
華頂宮博忠王が伏見宮に復籍し、第1王子・博義王もその継嗣として同時に伏見宮に復籍したことから、明治37年に勅命により華頂宮家には博恭王の第2王子博忠王が入った。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮華頂宮家の歴史と邸宅跡
華頂宮家の始祖となる親王は誰ですか?
博経親王
華頂宮家の始祖となった博経親王は、嘉永4年に誕生し、孝明天皇の猶子となって親王宣下された。
明治維新後に還俗し、華頂宮の宮号を賜って一家を創設。
議定、和学校御用掛、弾正尹などを歴任し、その後、海軍軍人の道を歩み、アメリカに留学した。
また、華頂宮家の邸宅跡は現在、東京都港区三田の児童公園(亀塚公園)と鎌倉市の通称旧華頂宮邸(庭園部分のみ一般公開)となっている。
詳しくみる ⇒参照元: 華頂宮