Academic Box Logo Menu opener

お手伝いさんからのスターの道へ!笠置シヅ子のブギウギ人生

ライターのYUKOです。

笠置シヅ子の生い立ち

笠置シヅ子は、実の父親と母親のどちらと暮らしていたのか

養母である亀井ウメ

笠置シヅ子は、1914年に香川で生まれ、すぐに養女として亀井家に引き取られた。

実の母親である谷口鳴尾は、18~19歳の頃にシヅ子を妊娠したが、結婚を許されなかったため、実家で出産。

出産後、母乳の出が悪かったため、大阪から出産のため帰省していた亀井ウメに父をもらうことになった。

シヅ子は18歳の時に、実父三谷陳平の17回忌の時に自分が養女だと知ることとなる。

詳しくみる ⇒参照元: ブギウギ| 笠置シヅ子の生い立ち、ブギの女王誕生、娘エイ子や...

松竹シヅ子の宝塚不合格の理由

松竹歌劇団の創設者で歌手の松竹シヅ子は宝塚音楽歌劇学校に不合格になった理由は何でしょうか?

背が低く、極度の痩せ型だったため

松竹シヅ子は1927年12歳で宝塚音楽歌劇学校を受験するが不合格になる。

理由は、歌唱力と踊りは申し分なかったが、背が小さく極度の痩せ型だったため、過酷な宝塚生活に耐えられないのではないかとの学校側の判断によるものだった。

その後、シヅ子は松竹楽劇部生徒養成所を受験し、合格して一期生として入部する。

松竹楽劇部では、すぐに初舞台を踏み、三笠静子という芸名で娘役としてデビューした。

松竹楽劇部では、愛嬌のあるかわいい顔で愛されキャラとして人気を集め、トップスターの飛鳥明子とともに「桃色争議」というストライキのデモに参加した。

詳しくみる ⇒参照元: ブギウギ| 笠置シヅ子の生い立ち、ブギの女王誕生、娘エイ子や...

笠置シズ子と服部良一の初対面

笠置シズ子と服部良一の初対面はどのような印象だったか

シズ子は小柄で、とても風評通りのスターとは思えなかった。

服部良一はシズ子の初恋の人であり、服部とシズ子はヒット作を作り続けた。

服部良一は大阪府大阪市中央区出身の作曲家・編曲家で、代表作に「別れのブルース」「東京ブギウギ」「青い山脈」「銀座カンカン娘」などがある。

シズ子は服部良一のことを「人形遣いと人形、浄瑠璃の太夫と三味線のように切っても切れない関係」と語っている。

詳しくみる ⇒参照元: ブギウギ| 笠置シヅ子の生い立ち、ブギの女王誕生、娘エイ子や...

笠置シヅ子のブギの女王人気を高めた曲

笠置シヅ子が歌ったブギの女王人気を高めた曲は?

東京ブギウギ

笠置シヅ子は、昭和20年代に活躍した日本の歌手です。

彼女は、服部良一とコンビを組んで多くのヒット曲を歌い、その人気は「ブギの女王」と呼ばれるほどでした。

笠置シヅ子が歌ったブギの女王人気を高めた曲は「東京ブギウギ」です。

この曲は、昭和23(1948)年に発売され、大ヒットしました。

また「笑う門には福来る」は、同じ年に発売された笠置シヅ子のヒット曲です。

この曲は、大映映画「舞台は廻る」の主題歌として使用されました。

「ジャングル・ブギー」は、黒澤明監督の映画「酔いどれ天使」のために監督自身が作詩した珍しい作品です。

この曲は、笠置シヅ子の大きな口がスクリーンいっぱいに映し出され、また日劇では笠置自らが虎や豹の着ぐるみを着て歌いまくったことで話題になりました。

詳しくみる ⇒参照元: 笠置シヅ子とブギウギの時代 特設ホームページ