江美早苗の悲劇? ストーカー殺人の真相元ディレクターの執念とは!!?
💡 アイドル歌手としては「涙でかざりたい」などのヒット曲で人気を博し、作詞家としては中里綴名義で南沙織さんの名曲「人恋しくて」をはじめ数々の名曲を提供しました。
💡 また、人気バラエティ番組「新婚さんいらっしゃい!」の初代アシスタントを務め、若くして大舞台で活躍しました。
💡 しかし、1988年、元ディレクターの屋代昭彦氏からストーカー被害に遭い、自宅マンションで殺害されてしまうという悲劇的な最期を遂げました。
それではさっそく、江美早苗さんの波乱万丈な人生をご紹介いたしましょう。
なんと、彼女はアイドル歌手から作詞家に転身し、さらに人気バラエティ番組の初代アシスタントを務めるなど、多方面で活躍したマルチタレントだったのです。
江美早苗の生い立ちと経歴
江美早苗さんの生い立ちですが、島根県松江市で4人兄弟の末っ子として生まれました。
6歳のときからバレエを始め、西野バレエ団に入団したそうです。
公開日:2015/12/25

✅ 江美早苗は、6歳からバレエを始め、西野バレエ団に入団。女優として活動後、中里綴のペンネームで作詞家に転身し、南沙織や中森明菜などに歌詞を提供した。
✅ 88年、江美早苗は元ディレクターの屋代昭彦氏からストーカー被害に遭い、自宅マンションで殺害された。屋代氏は離婚後も江美早苗に執着し、嫌がらせを繰り返していた。
✅ 屋代昭彦氏は殺人罪で逮捕され、12年の実刑判決を受けた。服役後、2000年に釈放されたが、その後の消息は不明である。
さらに読む ⇒Keeenet出典/画像元: https://keeenet.com/1531.html子供の頃からバレエで秀でていたのでしょう。
のちの活躍を見ても、素晴らしい才能を持っていたことは間違いありません。
江美早苗は1951年3月15日、島根県松江市で生まれました。
4人兄弟の末っ子で、実家は老舗旅館を営んでいました。
6歳からバレエを始め、小学2年生で西野バレエ団に入団しました。
西野バレエ団は、バレエの構成・演出・振付の第一人者だった西野皓三氏が結成したバレエ団で、大阪の帝塚山に活動拠点を置いていました。
島根県松江市に住んでいて、大阪の帝塚山のバレエ団に小学2年生で所属していたということは、江美早苗さんは子供のころからバレエで秀でていて、人の目を引く才能があったのでしょう。
その後、江美さんは1966年3月に松江市内の中学校を卒業後、島根県立松江北高校に進学します。
松江北高校は島根県一の進学校ですから、バレエだけでなく、成績も優秀だったことは間違いありません。
しかし、江美早苗さんは松江北高校を中退して上京し、芸能活動を始めます。
そげん若い頃から頑張られとったとやったら、そりゃあ才能もあったとちゃいますかね。
アイドル・女優・作詞家としての活躍
1968年にフィリップスレコードからソロデビューした江美早苗さんは、アイドル歌手として「涙でかざりたい」などのヒット曲を連発し、人気を博しました。
公開日:2024/02/19

✅ 江美早苗のデビューシングル「涙でかざりたい」は、1968年2月にフィリップスレコードからリリースされ、橋本淳が作詞、筒美京平が作曲・編曲を手掛けた。この曲は、江美早苗が16歳の時に島根県立松江北高等学校在学中にリリースされたもので、彼女のキュートな歌声と筒美京平らしい軽快なメロディーが特徴となっている。
✅ 江美早苗は「涙でかざりたい」に続く第2弾シングル「チャカブン」をはじめ、「アモーレ・バカンツァ」「花の誘惑」など、合計7枚のシングルをフィリップスレコードからリリースした。これらの楽曲は、橋本淳、鈴木邦彦、井上忠夫、阿久悠など当時のヒットメーカーが手がけており、江美早苗のアイドルとしての魅力を存分に引き出した内容となっている。
✅ 江美早苗のシングル「愛の鎖」のA面曲「愛の鎖」は、阿久悠が作詞、高見弘が作曲・編曲を手掛けた作品で、結ばれない恋に身を焦がす女性の心情を歌っている。B面曲の「いいわけなんてしない」は、かぜ耕士が作詞、森田公一が作曲、高見弘が編曲を手掛けた楽曲で、失恋した女性の心情をストレートに表現している。
さらに読む ⇒ Idol.ne.jp出典/画像元: https://idol.ne.jp/emisanaeその後、作詞家に転身して中里綴名義で数々の名曲を手掛けたことは、みなさんご存知の通りです。
江美早苗さんは、西野バレエ団のメンバーで結成したダンスグループ「レ・ガールズ」に参加し、1967年から放送された音楽バラエティ番組「レ・ガールズ」にレギュラー出演して本格的に芸能活動を始めました。
「レ・ガールズ」は本格的なダンスや歌で若者から支持されるようになり、アイドルグループの草分け的な存在として人気となりました。
歌手としては、1968年にフィリップスレコードと専属契約して、「涙でかざりたい」でソロデビューし、1968年~1971年まで合計で7枚のシングルを出しています。
女優としては「レ・ガールズ」のメンバーと共に「ミニミニ突撃隊」や「初恋宣言」に出演し、その後に『呪いの館血を吸う眼』などに出演しました。
また、新婚さんいらっしゃいなどのバラエティ番組にも出演しています。
松江北高校は中退しましたが、通信教育を受けて日本放送協会学園高校(現在のNHK学園高校)を卒業しました。
21歳で芸能界を引退後は、故郷の島根県松江市に戻りますが、翌年には再び上京し、作詞家に転身しました。
作曲家の田山雅充とタッグを組み、中里綴という名義でたくさんの作詞を行います。
代表作は、南沙織さんの「人恋しくて」です。
江美早苗さんが中里綴名義で提供したこの楽曲は日本レコード大賞歌唱賞を受賞し、NHK紅白歌合戦への出場も果たしています。
その他、次のような歌手の楽曲の作詞を担当していました。
・あおい輝彦・沢田聖子・中森明菜・堀ちえみ・岩崎宏美・河合美智子・岸本加世子1986年3月以降は、神田エミとして活動するようになりました。
神田エミ名義では、「ミュージカルPLAYZONE゛MYSTERY゛」のための楽曲6作品や岩井小百合、徳永英明、萩原健一などの作品を手掛けています。
古い曲じゃけど、今でもよう歌われとるもんねぇ。それだけいい曲やったんやろうね。
「新婚さんいらっしゃい」の初代アシスタント
江美早苗さんは、1971年1月31日に放送開始された人気バラエティ番組「新婚さんいらっしゃい!」の初代アシスタントを務めました。

✅ 「新婚さんいらっしゃい!」は、1971年1月31日に放送開始され、当初は朝日放送のプロデューサー澤田隆治、放送作家の尾上たかし、タレントの横山プリンが企画立案した。メイン司会には月亭可朝が起用され、アシスタントには桂三枝と江美早苗が務めた。
✅ 番組開始から約4ヶ月後、月亭可朝が参院選に出馬したため降板し、メイン司会に桂三枝が就任した。また、アシスタントも江美早苗から梓みちよに変更され、以降「二人司会」のスタイルが定着した。
✅ 番組では、時代を反映した話題を取り上げている。当初は風呂のある家が少なかったため内風呂に関する話題が多かったが、近年では高齢者同士の結婚や同性婚カップルなど、多様な参加者が登場している。司会の桂文枝は、出演者のリアルな言葉を引き出しつつ、下ネタを抑制するように進行しているという。
さらに読む ⇒文春オンライン | 世の中の「ほんとう」がわかります出典/画像元: https://bunshun.jp/articles/-/6033?page=1なんと当時まだ19歳で、メイン司会を務めた月亭可朝さん、桂三枝さんという大御所お二人との共演だったのです。
江美早苗さんは、1971年1月31日~始まったテレビ朝日系の長寿バラエティー「新婚さんいらっしゃい!」の初代アシスタントを務めました。
放送開始直後の司会は、月亭可朝さん、桂三枝さん、江美早苗さんの3人体制でした。
メイン司会は月亭可朝さんで、桂三枝さんと江美早苗さんをアシスタントとして配置していました。
江美早苗さんは19歳での大抜擢です。
しかし、この3人体制での司会は長く続きませんでした。
メイン司会の月亭可朝さんが、番組開始から約4ヶ月とに参議院議員選挙に出馬することになったんです。
そのため、月亭可朝さんは司会を降板することになり、しかもすでに収録していた番組4本もお蔵入りとなってしまいました。
これを機に桂三枝さんがメイン司会に据えて司会2人体制になりましたが、江美早苗さんもそのまま押し出されるようにして月亭可朝さんが降板した約1ヶ月半後には新婚さんいらっしゃいを降板することになり、新婚さんいらっしゃいは桂三枝さんと梓みちよさんの2人司会が長く続くようになっていくのです。
若くして大舞台で活躍されとったんやねぇ。すごいなぁ。
結婚と離婚
江美早苗さんは1981年に、フィリップスレコード時代の担当ディレクターだった屋代昭彦氏と結婚しました。

✅ 江美早苗は、1968年にフィリップレコードからソロデビューした際に担当ディレクターを務めた屋代昭彦と、1981年3月に結婚した。しかし、約5年の結婚生活の末、1985年12月に協議離婚している。
✅ 屋代昭彦は、江美早苗と結婚する前に別の女性と結婚していたが、江美早苗と不倫関係になり、約3年間不倫関係にあった。その後、屋代昭彦の妻が自殺し(屋代昭彦の不倫が原因と言われている)、屋代昭彦と江美早苗は一度破局したものの、その後再び交際を再開し、結婚に至った。
✅ 離婚の原因は明らかになっていないが、離婚時に弁護士を介していることから、屋代昭彦側に問題があったのではないかと噂されている。また、屋代昭彦は江美早苗と離婚後、ストーカー行為を行ったとして逮捕されており、彼の精神状態に問題があった可能性も指摘されている。
さらに読む ⇒ディスクユニオン|レコード・CD・DVD・音楽ソフトの通販・買取出典/画像元: https://diskunion.net/showakayou/ct/list/0/80919469しかし、結婚生活はわずか5年で終わりを告げ、1985年12月に協議離婚しています。
離婚の原因は明らかになっていませんが、離婚時に弁護士を介していることから、屋代昭彦側に問題があったのではないかと噂されています。
江美早苗さんは1981年にフィリップレコードのディレクター、屋代昭彦と結婚しました。
屋代昭彦は江美さんよりも14歳年上でした。
結婚までの経緯を見ていきましょう。
江美早苗さんが結婚した旦那は屋代昭彦という男性です。
屋代昭彦はフィリップレコードで音楽ディレクターをされていました。
江美さんとは、江美さんが1968年にソロデビューしたときの担当ディレクターでもありました。
屋代昭彦さんは既婚者だったのですが、江美さんと一緒に仕事をしてくうちに2人は不倫関係となり、約3年間不倫関係にあったということです。
しかし、屋代昭彦さんの当時の奥さまが自殺してしまい(屋代昭彦さんの不倫が原因と言われている)、2人の不倫関係は一旦終わったものの、再び屋代昭彦さんと江美早苗さんは交際をはじめました。
そして、8年間の同棲生活を経て、屋代昭彦さんからの猛烈なアプローチがあったこともあって1981年3月に結婚されたのですが、1985年12月に協議離婚されました。
離婚の原因については分かっていませんが、離婚時に弁護士を介していることなどから、原因は屋代昭彦さんなのではないかと噂されています。
そげん早く離婚しちゃったとやったら、何かあったっちゃろうねぇ。
江美早苗さんの短い生涯は、まさに波瀾万丈でした。
しかし、彼女の残した功績は今もなお輝き続けています。
💡 アイドル歌手として「涙でかざりたい」などのヒット曲で数々の賞を受賞し、作詞家としては「人恋しくて」をはじめ数々の名曲を生み出しました。
💡 さらに、人気バラエティ番組「新婚さんいらっしゃい!」の初代アシスタントを務めるなど、マルチタレントとして幅広く活躍しました。
💡 江美早苗さんの残した功績は、今後も語り継がれていくことでしょう。